2016年1月2日土曜日

10分でわかる「IS(イスラム国)」の成り立ち 〜なぜテロは起きているのか

2015年を振り返ると、「ISILによる日本人拘束事件」や、フランスで起きた年始の「シャルリー・エブド襲撃事件」から11月の「パリ同時多発テロ」など、IS(イスラム国)に直接・間接に関わる悍ましいテロ事件が思い出される。

胸を痛めたり、恐怖に震えた方もいるだろう。
パリ同時多発テロの際にはFacebookのアイコンをフランス国旗化して、フランスへの支援や犠牲者への哀悼の気持ちを表現した人もいるかもしれない。

テロは許されざる行為である。

こう言った時に、反対する人はほとんどいないだろうとは思う。
ただ、シンプルにテロは許されざる行為であることから、断固として戦うべきであると反射的に思ってしまうことは、とても危険だと思っている。


戦うな、と言いたいわけではない。

歴史的背景や、政治的判断の裏側にある思惑など、様々な文脈を無視して、あるいは知らずして、感情的な判断をしてしまうことはとても危険なことだと思っているからだ。

なぜ危険か。
それは、多くの政治的判断が、世間の感情的な圧力によってなされてしまうことがあるからだ。

この後に書くイスラム国の成り立ちの中でも、米国のブッシュ(子)大統領やオバマ大統領の判断には、それを求める国民的な感情があったように思う。

世論というのは、実はかなり強いと思っている。

一見、感情的には受け入れがたい政治的判断を見た時に、世論が沸騰して国の行く末を変えてしまうケースについては、日比谷焼打事件 はいい事例だろう。

感情的に受け入れがたい事件を見た時、特に政治的な背景がありそうな事件を見た時に、「なぜそうなったのか」を少しでも良いから考えて判断するかしないかの違いが、極端な話、国や世界の行く末を変えてしまうかもしれない。

そんな風に思っていたので、この正月休みに、ざっとIS(イスラム国)の成り立ちを自分なりに勉強しようと思っていた。

といっても、そんなだいそれたことではない。
わりと冷静に記述がされていそうな新書を二冊さらっと読んで、まとめただけの、元日の半日作業である。

ちなみに読んだのはこの二冊。「イスラム国」と「恐怖の輸出」 (講談社現代新書) 」「イスラム国の野望 (幻冬舎新書)

たった半日ではあるが、もやもやしていたものがいくらかクリアになる体験ではあった。

僕がまとめたものが、偏っていないとはいえない。2冊読んだだけだから。
ただ、中立っぽい本を2冊読んで、ほとんど内容は共通だったので、大きく外れていることはないと思う。意見ではなく、歴史的経緯を追っただけなので。

2015年以降の事件についての情報はとびかっているので、僕らの目につく用になったテロ前夜の2014年までの歴史を以下にざっとまとめてみた。

なぜ、ISによるテロが起きる状況になったのか。

簡単なまとめだけど、興味がある方はぜひ御覧ください。



2003年のイラク戦争前のイラクと、イスラム教スンニ派・シーア派

  • イラクは、かつてはオスマン帝国という大国の一部。スンニ派が軍の将校の大部分を占め、国の支配層を形成している国。
  • 第一次世界大戦でオスマン帝国がイギリスとフランスに敗れ、1918年に現在のイラクにあたる地域がイギリスの統治下におかれ、イギリスの支配下で王政国家であるイラクが誕生したが、その後もスンニ派の優位が続いた。
  • 1958年に軍事クーデターが起きてイラク共和国が成立したが、軍隊はスンニ派が握っているので、政権は自動的にスンニ派になった。1979年に大統領に就任した独裁者サダム・フセインが失脚するまで、一貫してスンニ派が権力を独占。
  • フセインが大統領に就任した同時期にイラン革命が起きていたこともあり、フセイン政権と米国は、利害を共有する関係にあった。イランは元々は親米だったが、1979年に起きた革命によって反米の国に変わった歴史がある。イランをおさえこむために、隣国イラクのフセインに米国が着目。米国の支持を背景に、イラクはイランに戦争をしかけ、8年間に渡るイラン・イラク戦争が勃発。結果、イランが弱体化し、イラクは強大な軍事力を持つようになった。
  • イラクがクウェートに侵攻した1990年の湾岸戦争の際は多国籍軍がイラクを制圧したものの、イランとイラクのパワーバランスを維持させるために、フセインを失脚させることなく米国はフセイン独裁体制を放置した。
  • フセイン政権時代のイラクは、人国の20%を占めるスンニ派が、60%を占めるシーア派と、20%を占めるクルド人を支配する構図だった
  • イラクではシーア派が人数で見れば多数はであったが、世界のイスラム教全体でみれば、9割がスンニ派、1割がシーア派である。シーア派が多い国家にイランがあり、9割がシーア派という珍しい国だが、それ以外のイスラム国はほぼスンニ派。
  • スンニ派とシーア派は、教義の面ではほぼ違いがなく、ムハンマドの後継者が誰であるべきだったかという考えの違いが大きな違い。なお、スンニ派とシーア派が分裂した1,400年前から、メソポタミア周辺国家でシーア派が権力を掌握したことはなかった。


2003年の米国・イラクの戦争がなければ、イスラム国が誕生することはなかった

  • 2001年に発生したアルカイダによる米国同時多発テロをきっかけに、米国内では海外に脅威を残すことは怖いという意識を強く持つようになった。湾岸戦争では独裁を維持させたが、今こそ独裁政権であり、過去に化学兵器を使ったことがあるイラクを崩壊させよという意見が増えてきた。
  • アルカイダとイラクはまったく関係がない組織だったが、ブッシュ大統領の周辺で、イラクが大量破壊兵器を作ってアメリカを脅したらどうなるかという議論が起こり、結果として米国は2003年にイラク戦争に踏み切り、フセイン政権を崩壊させた。
  • 戦争後、イランに民主主義を導入することが大義であった米国は、フセイン政権を崩壊させた後、歴史的に被支配側ではあったが人口では多数派であったシーア派が新しく政権を担うべきと考えた。
  • そこで米国は二つの失敗を犯し、スンニ派を必要以上に追い詰め、「イスラム国」誕生の素地を作ってしまった。
    • 当時50万人いたイラクの軍隊(主にスンニ派)を、武装解除もせずに解雇し、軍人たちは家族を養う糧をなくした。
    • 旧フセイン政権を支えたバース党(主にスンニ派)を解党した。200万人いたバース党員は官公庁・教師・医師などの知識層が多く含まれたが、一斉に解雇された。専門技術を持った人間が排除されたため、社会機能が麻痺した。
  • フセイン政権時に支配的な地位にいたスンニ派住民は、被支配されるどころか、最低限の生活もできないほど困窮した。治安もまったく安定せず、国内外であわせて、人口の1割以上にもおよぶ400万人の難民がでた。
  • 結果、スンニ派の旧軍人が新しい政治プロセスに反対して武装反乱を開始し、スンニ派一般住民も過激派による武装反乱を支援、泥沼の内戦へと陷った。
  • 内戦中、米軍やイラク治安機関は、スンニ派の拘束者にすさまじい拷問や虐待を強いた。なかでも米軍が設立して訓練した「狼旅団」という対テロ部隊は、シーア派の将軍をトップに据えており、スンニ派を激しく殺戮し、イラク国内の宗派対立を激しく煽ることになった。
  • スンニ派だったイラクがシーア派の国になったことはイスラム世界全体のパワーバランスを変える大事件であり、それを容認しない近隣のスンニ派諸国(サウジアラビア、ヨルダン、リビア、アルジェリア等)から、スンニ派の義勇兵がイラクに渡った。
  • 反米・反政府勢力のうちの一つ「ザルカーウィー・グループ」が、現在の「イスラム国」の起源にあたる。2004年には「アルカイダ・イラク(AQI)」、その後2012年ころには「イラクのイスラム国(ISI)」に名称を変えていくことになる。


2007年から米国はシーア派とスンニ派を和解させる方針に転換、2011年にはイラクから撤退したが、その後イラク政権はスンニ派を裏切り、反乱が再開

  • 2007年頃から、アルカイダ・イラク(AQI)の行き過ぎたテロに嫌気が差し、同じスンニ派の部族の長老たちが、シーア派の新政権と和解しようという動きを見せた。米軍ペトレイアス将軍の、スンニ派住民を雇うことによる平和な治安維持組織(イラクの息子たち)も成功。住民の支援がなくなると過激派の活動も難しくなり、反乱は一旦沈静化していった。
  • テロも沈静化したことから、2011年に米軍は撤退を完了させた。しかし撤退完了の翌日、イラクのマリキ首相(シーア派)はスンニ派を逮捕し始め、米軍が雇った10万人の「イラクの息子たち」も解雇する裏切りを実行。スンニ派住民の間で、再び武装闘争を支持する空気が強くなっていった。
  • AQIは再び大規模テロ作戦を展開し、刑務所に収容されていた歴戦のテロリストを組織に復活させ、組織の再構築を図っていった。


シリアの内戦を機にAQIの支配地域をシリア・イラクに拡大し、「イスラム国」を樹立

  • シリアは、1970年から2000年までは前アサド大統領が政権が担い、その死去により息子の現アサド大統領が後を継いでいるという、独裁政権。元々は秘密警察が強く治安は安定していたが、2010年の「アラブの春」(チュニジアでの反政府運動)がシリアにも広がり、民主化要求運動が発生。政府が軍隊を出動させ弾圧したことをきっかけに、内戦が勃発している。
  • シリアでの宗派は、人口で言えば、シーア派の分派であるアラウィー派が1割、スンニ派が7割の国。支配層はアラウィー派で、少数が多数を力でねじ伏せるという独裁構造。
    • 元々、1920年代にオスマン帝国が敗れた際に、フランスがシリアの統治を実施。少数派を優遇して植民地内の結束を分断させるために、アラウィー派を要職に取り立てたのがアラウィー派が権力を握ったきっかけ。1946年にシリア共和国として独立後、軍事クーデターが繰り替えされる不安定な国家に。
    • イラクと同じく、イギリスとフランスが利権を優先してオスマン帝国の領土を人種や部族への配慮なく無理やり国境線を引いて分割統治した影響が、現代のイスラムの問題を生み出している。
    • 「イスラム国」の主張にも、1916年にイギリスとフランスがオスマン帝国の領土を分割することを決めた秘密協定である「サイクス・ピコ協定」の破棄が主張の一つとして掲げられている
  • アラウィー派のアサド政権が国際社会の批判を浴びる一方で、2011年以降、スンニ派の反政府勢力がサウジアラビアやカタールなどのスンニ派諸国から大量の資金や武器の支援を受け、武装反乱が続いていた。
  • 「イラクのイスラム国(ISI)」を名乗るようになったAQIは、シリアに行けば武器も金も手に入ると考え、2013年にはシリアの同盟勢力を吸収する形で「イラクとシリアのイスラム国(ISIS)」に名称を変更した(別称として、イラクとレバントのイスラム国(ISIL)と呼ばれることもある)。
  • シリア内戦が世界の注目を浴び、資金援助や武器支援がシリアに集中する中、ISISは反政府勢力に寄せられる武器・弾薬を横取りして軍事力を増強し、2年がかりでシリア国内の支配地域を拡大させた。
  • 一方イラクでは、2014年4月、イラクでの国民議会選挙でシーア派のマリキ首相が率いる政党が最大勢力になり、ますますスンニ派を武力でねじ伏せようとした。
  • ISISは、マリキ首相の三選を阻止するという旗印でスンニ派の力を結集し、スンニ派地域を開放するというプロパガンダを展開。テロ作戦により拠点を拡大しながら、2014年6月には軍事作戦によりイラク第二の都市モスルを占拠し、支配下においた。モスルにあったイラク軍の基地を押さえたことで、大量の兵器も手に入れた。
  • 同6月29日に、ISISのリーダーであるバグダーディーをカリフ(預言者ムハンマドの後継者)とするイスラム国家を一方的に樹立し、自らを「イスラム国(IS)」と改名した。


米国によるイラクへの空爆が再開、当初の自衛的な目的から、本格的なIS殲滅を目的とする戦いに発展

  • 2014年8月、オバマ大統領は気が進まなかったものの、イラク内の米領事館で働く外交官や文民たちを守る「自衛的な」目的で、ISへの限定的な空爆を開始。同時に、混乱を招いたマリキ首相への退陣圧力も強めたことで、軍事介入から1週間で政局が動き、イラクにて新首相の指名をすることになった。
  • 一方ISは、イラク空爆に踏み切った米国への報復として、米国人ジャーナリストであるジェームズ・フォーリー氏を処刑する映像を公開し、米国を挑発し始めた。これを受け米国内では、地上部隊投入も含めた本格的な介入を求める世論が強まり、弱腰のオバマに批判が集まった。
  • 9月には二人目の米国人ジャーナリスト殺害映像が公開されたことで、オバマはISを弱体化させ、最終的に壊滅させるための有志連合をつくると宣言するに至った。
  • 9月22日にシリア領内へのIS拠点への空爆を開始。シリア空爆には、サウジアラビア、ヨルダン、UAE、バーレーン、カタールの中東五カ国と、フランスが有志連合国として参加することとなった。


イラクと違い、敵対関係が複雑に入り組むシリアでは、政治的な落とし所を見つけることができないまま状況が複雑化

  • ISとの戦いにおいて空爆だけでなく地上でのサポートが必要ななか、米国は、イラク内ではシーア派政府とスンニ派の長老たちを懐柔しながら、かろうじてISへの軍事作戦が実施可能な状態にできた。
  • 一方シリアでは、もっとも能力のある軍事組織はアサド政権軍だが、米国はアサド政権の退陣を基本政策としているため、対ISという意味では同じ側に立っているものの、アサド政権との協調は不可能な状況だった。しかし、アサド政権を崩壊させたらイラク戦争後の混乱の二の舞いとなると考え、ISの壊滅を再優先と考えていた。
  • これに対してサウジアラビアなどのスンニ派アラブ諸国の有志連合は、ISだけを攻撃すればアサド政権を利することになるとして、反アサド作戦を同時に進めることを求めている。サウジアラビアやトルコなどは、シーア派のイランが支援するアサド政権の崩壊を一番に望んでおり、米国と戦略の優先順位が一致しなかった。
  • 結果、オバマ政権はISを倒す地上のパートナーがシリアに不在なため、反政府勢力の中でも穏健派である「自由シリア軍」などに武器を提供し、訓練を実施してISと戦わせるという悠長な政策を取らざるをえない状況となった。なお、「自由シリア軍」と他の反アサド勢力は、同じ反アサドでありながら交戦状態にあるという複雑な状況にあった。
  • さらに複雑なことに、米軍はISだけでなくアルイカイダ系組織の「ヌスラ戦線」など他の過激派反政府組織へも空爆しているため、シリア反政府勢力全体の混乱と弱体化を招き、結果としてアサド政権を利するかたちになった。アサド政権としては、元々シリア軍から独立し、西側諸国の支持が厚い「自由シリア軍」を重点的につぶしにいっているため、ISやヌスラ戦線など他の反アサド勢力を弱体させることは、アサド政権にとっては望ましいことであった。結果、反政府勢力支配地域では、反米感情が強まるという負の効果が高まっている。
  • ISを倒した後、アサド政権をどうするのか、シリアを誰がどう統治するのかが関係国の間で足並みが揃わず、こうした国際関係の間でISが生き残る余地が生まれている。アサド政権もイスラム国が存続してくれたほうが都合が良いため、ISとはまじめに戦っておらず、ISが生き残りやすい状況を生んでいる。


有志連合のたちあがりを受けて、ISの戦いがグローバル化

  • シリアで法的根拠の乏しい軍事作戦を開始するにあたり、オバマ政権はISを世界共通の脅威であると国連の場で強調した。
  • 結果、イラクとシリアという特定の地だけで防御的に活動をしていたISに、かえってグローバルな反応を促してしまい、ISは国際有志連合に参加する全ての国々を攻撃する意志を表明することになった。
  • ISは有志連合の空爆によって殺害された子どもたちの映像などを公開し、現在の秩序に満足しない世界のイスラム教徒の一部の支持をとりつけはじめた。国連安保理がシリア渡航を規制することに合意した後も、ISに加わる戦闘員の数は増加し続け、中東ではサウジアラビア、ヨルダン、西欧ではフランスなどから志願兵が集まった。
    • ISのメッセージは、多くのイスラム教徒が反米感情を持っていることから、受け入れられやすい状態にある。
    • 米国は、アフガニスタンではタリバンと戦争をしているし、パキスタンやイエメンやソマリアでは無人機でミサイルを落としている。また、民主化を進めることを提唱していながら、サウジアラビア、UAE、カタール、ヨルダンなど王政の国家ばかり支持している。イスラムとは戦争しなといいながらそのような行動をとっている米国の矛盾があるなかで、ISは、欧米諸国の歴史的なイスラム抑圧に反発するイスラム教徒の精神構造をもとにイデオロギーを作り、勢力を拡大している。
    • ISは、イスラム国へ移住せよ、それがかなわない場合は、今いる地にとどまり、ISの敵を攻撃せよとメッセージを発している。
  • グローバルでは、各国でISに忠誠を誓う地元組織にISを名乗ることを認めることで、ISのフランチャイズ化を進めている。この流れは、リビア、イエメン、サウジアラビア、エジプト、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、ナイジェリアなどの中東・アフリカ諸国や、アフガニスタン、パキスタンなどに広がっている。マレーシア、フィリピン、インドネシア、バングラデシュ、インドなどアジア各国でもISへの参加が増加している。


ISの戦いがグローバル化したことに呼応し、フランス国内でもテロが発生し始める

  • EU内でもフランスのイスラム教徒人口はダントツに多く、総人口の10%を占める。シリアやイラクに渡航して過激派勢力に参加した後に帰国したと思われる「中東帰り」の数も1,200人と言われており、監視することが不可能な状況にある。
  • パリ郊外の移民街では、イスラム教徒の若者は差別や失業に苦しんでいる。過激派戦闘員への勧誘も横行している。欧州諸国全体で広まる反テロリズムの動きは、否応無しに反イスラム感情を強め、イスラム系移民を圧迫している。フランスでとられている政策や社会風潮は、一般のイスラム教徒を敵に回し、過激派との距離を近づける方向に進んでおり、ISの思う壺になってきていた。
(そして、2015年に・・・)


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