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2011年10月29日土曜日

「シェア」する世代が創りだす世界

先日、友人であるライフネット生命の吉沢さんのお誘いで、レイチェル・ボッツマン著のシェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略<共有>からビジネスを生みだす新戦略をテーマにしたワールドカフェ@リクルート社に参加した。


さすが吉沢さんの企画だけあって、集まったメンツがバラエティに富んでいて、誰もがエッジの効いた方ばかり。ワールドカフェの面白さはテーマ選びに加えてメンツの多様性と質が大事だと思うのだが、その意味ではどれにおいてもハイレベルな場であった。

あまりに楽しかったので、その場で思ったことをメモとして残しておく。たいした結論があるわけではないのだが、ワールドカフェの精神よろしく、自分に対しての刺激の結果として記しておきたい。




Amazonより〜<所有する>から<利用する→SHARE>へ車や自転車、工具のシェアからモノのリサイクル、リユース、そして、お金や空間やスキルのシェアまで、インターネットとソーシャルネットワークによって今、かつてない多様なシェアビジネスが始まっている。大規模なコラボレーションとコミュニティが生みだすフェイスブック時代の新しい〈シェアリング・エコノミー〉が、21世紀の社会と経済のルールを変えていく!


■所有するなんてカッコ悪いし、ダサい

シェアというとなんとなく「みみっちい」と感じるあなた。それは既に歳を取り過ぎた証拠かもしれない。

若者の間でシェアハウスが流行っているが、これは決して金銭的な目的だけではないようだ。車を持つ生活というのは僕が大学生の頃は完全に憧れの生活だったのだが、今時の若者は憧れどころか、カッコ悪いとまで思っている人も多い。

モノに付随するある種のステータスを期待して消費する「記号消費」には全く興味がなくて、消費するのは「機能」だけ。これについてはここ数年「コラボ消費」なる言葉でも言われていることだが、多分「機能だ」けでもつまんない話。

シェアというのは更にその一つ先を行く消費のあり方なんだろうと思う。
(ひょっとすると「消費のあり方」と言う言い方も限定的すぎるかもしれない)


■シェアするのは感情であり、ストーリー

何かをシェアするという時、その動機の基礎になっているものはやはり経済合理性だろう。経済的に合理性はないがシェアはする、というのは極めてレアケースのはず。

例えば車のシェアをする時、その背景にあるのは、「車なんて駐車場に止まっている時間が大半だから所有するよりも使いたい時だけ使える方が明らかに経済合理性がある」という判断だ。

最近流行っているシェアハウスだって、共用部分を一緒に使えるから一人で住むよりも安くつく、というのがベースにある。

でもそれだけでシェアは説明できない。

例えば、100円パーキングに泊まっているシェア専用の車を予約して借りるよりも、CaFoReのようなサイトで、他人の車を借りる方が面白そうだなと思ってしまう人がいる。

それはたぶん、企業から借りる無機質な感じよりも、人が使っている車を借りることで、貸主の生活を想像したり、貸主と感謝の言葉のやり取りするのが楽しかったりするからじゃないかと思う。レンタカー借りたって感謝の気持ちとかあまり出てこないでしょ?

ホテルの代わりにairbnb経由で宿泊する時、それは単に安いからという話ではなく、そこに住む人との交流だったり、紹介してもらった地元のレストランでのひとときだったりと、ある種の人間らしさに触れるのが楽しくてするのではないか。

単なるレンタルではない、シェア。合理的な消費をしている俺たちってクールだよね、という感覚はあるだろうとは思う。でも本当に欲しているのは、そこで交換されている「感情」だったり「ストーリー」だったりするのではないかな。

人間らしさ。人間とのつながり。それがクールなんだろう。



■SNSがシェアに果たした役割は大きい

何かを誰かとシェアをする時に引っかかるのは「この人、信頼できるのかな・・・」という不安だろう。自分の車や家の一室を見知らぬ人に貸すとしたら、相手が信頼できる人かどうかが気になるのは当然だ。

ただ、それでもシェアをできてしまっているのは、最近は相手の氏素性がFacebookを通じて可視化されているからだろうと思う。

Facebookはプライベートの垣根をかなりのレベルで取り払った。友人関係どころか、家族の存在さえ見えてしまう。

シェアする上で、相手のことが事前によくわかるという利便性をFacebookは生み出した。だが、それだけではない。

もっと大きいのは、何か会った時は悪い噂もすぐに広がってしまう環境(評判から逃げられない環境)を作り出し、「まさか悪いことはしないだろう」という性善説にも近いような安心感を生み出したことではないか。

小さな村に住んでいれば悪いことしてもすぐバレるから誰もやらない。その「信頼の半径」を世界規模まで膨らませたのがFacebookということじゃなかろうか。

そしてもう一つ、Twitterの存在も大きい。これは氏素性がわかるという話ではなく、「感情を共有する楽しさ」を知らしめた、という点において。

Twitterの特徴は、mixiなどのSNSと違ってストックではなくフローであり、情報の共有ではなく感情の共有である、という点にあると思っている。

何気ないつぶやきにちょっとした反応が返ってきたり、他人がどうでもよいことを悩んでいたり喜んでいたりしているのを見たりしているうちに、ほとんど会ったことがない人でも何故か親近感が湧いたりする。あれって、いつもいつも感情をシェアしているからじゃないかな。

人を信頼し、人と感情をシェアする。これって、実はとっても幸せなことなんじゃないかと、SNSのおかげで気づいた世代。

現代のシェアのベースは、SNSによって作られたと思う。


■人々が寄り添うコミュニティの変遷

ワールドカフェのイベントの中で、シェアって昔への「回帰」だよねっておっしゃる方が何人かいた。祖父母の時代には、近所の人と醤油だったり野菜だったりをおすそ分けするのって普通だったはずで、その時代に回帰したんだ、と。

わかる気もするんだが、僕の感想はもうちょっと違った。これは回帰というよりも、寄り添うコミュニティが移り変わっただけではないのかな、と。

つまり、昔はコミュニティといえば地域だった。住むところは働くところであり、コミュニティは基本的に狭い範囲で閉じていた。その中では冒頭のようなシェアが普通に行われていた。

その後、地域というコミュニティが希薄化する一方で、替わって高度成長期には「職場」というコミュニティが人々の生活の中心になったんじゃないだろうか。

電車に乗って遠くの職場に行き、帰りは遅い。週末も会社づきあい。ゴルフもあり、会社単位での部活もあり。社宅に住む比率が増え、家族参加の運動会なんてのも毎年ある。

そこでシェアしていたものって今からするとあまり気持ち良いものではないかもしれないが(笑)、確かに多くのものを会社のつながりの中でシェアしていた。

そしていま、そのような職場のあり方が否定され始めた一方、ネットの登場で社外の会いたい人と簡単に会えるようになってきたことで、「価値観」に基づいたコミュニティというものが育ってきた。

自分の価値観と近い人を見つけて、夜や週末にさくっと集まる。その代表格はNPOへの参加だろう。忙しいのに仕事とは別の活動をするのは、給料をもらうためではなく、根っこにある価値観の共有であり、価値観を具現化することの楽しさであり。

なんとなく、シェアというのは多かれ少なかれ昔からあって、それが価値観をベースとしたコミュニティで特徴的に行われるようになった、というのが現在の姿じゃなかろうか。

(なお、以前書いたこちらのエントリーが、価値観コミュニティに対する僕の個人的な実感を表していると思う)


■信頼資本主義と、まだ見ぬその先の世界

シェアが普及する現代、何をやるにも必要なのは「信頼」ということになってきている、と思わない?

Facebookで担保される信頼。Twitterで担保される信頼。オンライン・オフラインそれぞれにおいて、ネットワークの質が人生を左右することが以前にまして増えてきている。そんな風に思う人は増えているんじゃないかな。

そこにあるのは、信頼こそが価値を生むという信頼資本主義なる世界観か。
(あまり厳密に定義していないのでツッコミはなしね・・・)

そこでは実名でのネットワークが中心的役割を果たしそうな反面、必ずしも実名をベースとしたネットワークである必要もなく、匿名であったとしてもある種の評価が蓄積していれば同じように信頼を得ることはできる。逆に言えば、悪い評価がついてしまうと一瞬に多くのものを失うシステムでもある。

信頼資本主義のもと、価値観をベースとしたコミュニティに依拠している時代。でも、これって誰しもができているかというと、当然にそういう世界と隔絶している人もいる。というか、まだまだそういう人がマジョリティか。

でも、もし価値観ベースのコミュニティがマジョリティを形成した場合、そこで先ほど行っていたようなコミュニティの変遷はストップしてしまうのだろうか?

何らか不都合が出てきて、ネットワークから外れる(一時的に消える?見えない部分を作る?)ことこそが価値を生む時代がその後に来たりするのかな??

価値観を共有できているってかなり人間の根源的な幸せを形成してそうな気がするが、それが是とされすぎた世界にはどんな反作用が生まれるのだろう?

このあたり、まともな仮説もまだないのだが、ちょっと頭の片隅に留めておきたい(どうやって適切なかたちでシェアを進化させるか、という問いにそのままリンクしているような気もするし)。


■結局は「マッチング」、という現実を見据えていこうかな

とまあ、色々書いてはみたものの、経済合理性の話から感情のシェア・信頼資本主義まで、言ってしまえばテクノロジーのおかげで「マッチング」に関するコストが劇的に下がっただけ、という言い方もできるわけで。

脳みその右っ側ではシェアに関する人間心理についてアンテナを立てておきつつ、Webサービスを立ち上げようとしている今の僕は、とにかくテクノロジーを活用したマッチングがどんな具体的なサービスを生み出すか、というところにもっと左っ側の頭を使っていこう。

なんにせよ、面白い時代だなぁと思う。

どこまでも波に乗って行きますよ、はい。